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6th Squadron
Pege-2
1983年(昭和58年)になれば、F-1の各飛行隊も円熟期を迎え、戦力化にも自信を付けてきた時期であろう。アメリカでは当時タカ派と言われたレーガン大統領が就任3年目を迎え、ソ連を「悪の帝国」と呼んで敵対関係がエスカレート、この年の秋にはアメリカ軍機と誤認したソ連機が大韓航空機撃墜事件を起こす。レーガンは戦争をするつもりはなかったが、ソ連を経済的軍事的に追い込んで、政治的譲歩を引き出しながら、SDIをチラつかせてそれまで出来なかった核軍縮も考えていた。一方日本では中曽根首相がアメリカの軍事拡大に歩調を合わせ、防衛費の増額を進めていたので、新規装備と言う面では自衛隊も恵まれた時期にあったと言える。1982年(昭和57年)にはF-15J/DJの202飛行隊が発足して、千歳の203飛行隊がF-15J/DJの転換訓練を開始していたのである。また 1982年の中期業務見積り(当時のの防衛装備計画)に次期FS-X(後のF-2戦闘機)の整備が盛り込まれ、時代は既に第4世代機へのステップを踏み出していた。(2024年2月 記)
↑ 1987年1月と4月に松野氏が、築城基地で撮影されたF-1/236号機。1987年は次期支援戦闘機がF-16戦闘機をベースに作られることが決定した年でもある。F-1配備10年をして、既に次期支援戦闘機の選定が終わっており、共同開発が始まろうとしていた。
↑ 上の3枚の写真は1986年7月下旬に松野氏が、築城基地で撮影された第8飛行隊のF-1の面々。何と空対空ミサイルAIM-9Pは実弾である。築城でも年に何回か実戦を想定して、複数の機体に実弾を装備して訓練をすることがあるが、これに当たる日に撮影ができる事は滅多にない。
↑ 1983年1月6日に築城基地で松野氏が撮影されたF-1/256号機と240号機。シリアルの10-8256の最初の文字”1”は、1981年に防衛庁(当時)に収められた機体であることを示す(00は、1980年)。因みに1982年末までに第6ロットのF-1/266までが納入済であった。
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↑ 上の2枚の写真は1986年11月上旬に松野氏が築城で撮影されたF-1/211/236/247
↑ 松野氏が1986年11月下旬に築城基地で撮影されたF-1/255号機、低視認性塗装の研究の為に国籍マークもオーバースプレーしてあり、シリアルもない。胴体後部の翼の付け根にうっすらと第6飛行隊のインシグニアが書かれているのが面白い。築城の第6飛行隊は、特に低視認性(ロービジ)の研究に熱心であり、1987年以降も多くのロービジ塗装が確認されている。
↑ F-1初号機である201号機は、三沢の第8飛行隊に所属していたが、1984年秋の新田原基地航空祭には築城の第6飛行隊のマークをいれて展示された。当時の新田原基地は、新鋭F-15Jの第202飛行隊がアラート任務を開始したばかりであるが、まだ第204飛行隊にはF-104J/DJが残っており、F-1が加われば第2世代から第4世代までの戦闘機が並んだことになる。横に並んでいるT-2は、飛行教導隊のものであるが、1983年に築城基地から新田原基地に移動してきた部隊である。因みに飛行教導隊は、第6飛行隊と同じ築城の第8航空団傘下の飛行部隊として誕生しているのである。